独りであること、未熟であること

酒飲んだ日にしか更新しないです

自分について

今日は朝6時に気持ちよく目覚めたけど、課題するだけで何もやる気にならなくて、トランスポーター3を見ながら寝落ちして昼寝しちゃった12時間後の記録。

 

このブログ、紙に書くような日記のつもりで書いてるから別に誰に見せたいからという気持ちは何ひとつない。未来の自分のためだけにある。二十歳の時に考えていたことを思い出すため。そりゃ見て感想もらえたら少しは承認欲求満たされるかもしれないけど。

 

洗濯をさぼっているからパンツが切れてノーパンで書いてます。

 

前回書いたとき24時間起きてふらふらな状況でペース早く飲んだらいつものちょうどいい量で死ぬほど吐いた、反省。

20年一応生きてきて、自分とはどういうものかを最近考えているのでまとめておこうと思って書き始めた。高校の自己評価欄を書かされるの苦手だった。自分を客観視なんてできないし、想っている自分と見えている自分は違うだろと思っていたので、長所短所には自己否定をするところとだけ書いていた。

最近は内面の自分と外面があってきたのか、まともに自分を認められるようになったからか書けと言われれば書ける。

何から書くか。

 

まず、能力的なことを言えば、大抵のことは人の平均よりちょっと出来るというイメージ、偏差値55-60みたいな。カラオケと水泳だけは苦手なんだけど、たぶんこれも努力したら人並みまでできるんだと思ってる。

今思ったら多くの人は同じ人間なんだから、同じようなものなのかもしれない。

勉強、テニス、ゴルフ。向いてないということはなかったと思う。でも自分の中に100点のものが存在しない。

これが自分の自信の無さの根源なんだろう。東大には行けなかったし、テニスは高校くらいからは変化してなかった気がする。モチベーションの問題もある。

父親には、模試やスポーツで日本1を取るのは相当しんどいから、研究をすることでその分野を作り、1/1で日本1,世界1になればいいと言われて、それはまだ信じて大学院での自分には期待している。

 

努力しなくても人並みよりちょっと出来ることはあって、人より劣るところはちょっと頑張って人並みにして恥ずかしくないようにする人生だった。最低限の努力しかしてこなかったし、したくなかったんだと思う。

子供の頃の自分の可能性を1だとすると、今はもう0.2くらい。怠惰な性格だったから、そんなに向いてないことを努力したって才能に勝てないって考えてたから頑張り方をしらない。

今でもそれは正しいと思うけど、自分の才能あることはまだ見つかってない。誰にでもできることができたとしてもそれは生きている意味はないということになる。

 

ここらへんの思想は、なるたる12巻巻末コメントである

『「かけがいのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。あなたがいなくても、たいして困りません。自分がいなくても大して困らないでしょう。だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。』

から来ていて自分の人生哲学みたいなもの。

 

この繋がりで生きている意味、死ぬ意味というのを語る。高2くらいのときに英語の先生にそんなものは存在しないと言われたけど、二十歳になってもそれは大人として生きていくために無思考に適応していっただけの話だろうと思う。自分も年を取ればそう説教する人間になっているかもしれない。

死ぬ意味なんていくらでもあって、その人にしかできないことがあって、地球全体に利益が還元されていく時に初めて人間に存在意義が生まれる。

 

まあその可能性が0になるまでは何かと努力していけたらいいかな、30歳くらいまでかな。

 

これ書こう、あれ書こうと考えてたものが全部吹っ飛んだ。

今生きていなくてもどうでもいい人間ではあるけど、そうじゃない可能性が残っていると考えて頑張って生きていようじゃないか。

 

でも生きる理由死ぬ理由なんて、生きていくことが簡単になった人間だからこそ考えてるだけで、客観的に見たらただただ生殖行為をして遺伝子を残す以外は本質ではないんだろう。

普通に恋愛して普通に結婚して遺伝子を残していくみたいな過程が一番人生で難しいんですけど。

 

他人への興味がないというのも最近の特徴。好かれたいとか嫌われたくないとか、友達とか家族とかなんか全部どうでもいい。自分が自分にも他人にも興味がないから、他人がどう自分を見るかなんてさらに興味がないのか。これを考えることもどうでもいい。

 

二十歳の原点を読み直そう。実験のレポートを書こう。見てない授業のノートとろう、明日には筋トレをしよう。30歳までいろんな経験を重ねていこう。洗濯も忘れずに。